手にしたのは、ささやかなともしび。
「あれから1年」
それが頭をよぎる度に、私の方にも思うことがあった。
あれから1年。
さて、私はちゃんと進めていただろうか。
はからずも今日、大切な人と連絡をとった。
私たちは毎日連絡して、しょっちゅう会うような関係ではないが、ここぞ、と言うタイミングに引き合い、共鳴し合う、少し不思議な関係だ。
むしろその、ここぞと言うタイミングに深く共鳴し合うからこそ、普段は離れていても、不思議とどこかで繋がっている感覚がある。
ソウルメイト、と言う言葉は使い古されているし、なにより少し気恥ずかしい感じがするので、そんな言葉で表現したくはないが、もしそれが本当にあるなら、こんな感じかもしれないと思うような相手だ。
そんな彼女と宝物のようなメッセージを交わした。
時に人は、霧のかかった森に入り込む。
森が深ければ深いほど、湧き上がる不安や、戸惑い、焦りなどをよくないものと否定して、重い蓋をしたくなる。
前を向くことだけに躍起になり、光がかったものだけを信じたくなる。
だけど、やがて霧がかすみ、視界がひらけてくると、重い蓋をした感情たちがどれだけ輝いていたかということに気がつく。
ここで思い返されるのが、欠けたものを捨てずに、継ぎなおすという美しい日本の文化。
金継ぎを経て生まれ変わったうつわは、欠けるということ、それ自体が美しいことだと思わせるほど輝きを放つ。
本当は感情だって、いや人そのものだってそうではないだろうか。
少し前、ついにそんなわたしの”金色”の部分が、ずっと探していた言葉と出逢わせてくれることになった。
ある時には深い森を彷徨ってまで追い求めていたことに、別の角度から光が当たった瞬間だった。
そんな大切な言葉を彼女と交わし、私たちはまた深く響き合う瞬間を得た。
彼女のなかにもおそらく、かけがえのない”金色”があったのだと思う。
森が導いてくれた光。
「あれから1年」の今日、はからずも交わした彼女との会話から浮かび上がったのは、私の手には今、ささやかだけれど、確かな光があるという実感だった。
それはもちろん、彼女の手の中にも。
この光を手に、私は、私たちは、明日をすすむ。
このささやかな灯火が、誰かの大いなる太陽になるときを信じて。
2020.01.27
愛を込めて