わたしを生きていくために
どうしても今、書かないといけないことができた。
ここで一度、ケリをつけないといけないことがある。
たぶんこれは、決別の書。
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目が開いた。それも強烈に。
きっとこの表現がぴったりだと思う。
恐らく5年間くらいの恋人がいない期間のうち、2年間ほど、なんとなく頭の片隅にいた相手がいた。
そんな彼が、結婚したのだという。(たぶん)
人伝だったので正確にはわからないけれど、ほぼ100%。
パートナーがいる、という点においてははっきりと100%。
私は好きなものに対してのみ、異様に感覚が鋭いので、なんとなく、少なくとも良い相手がいるのだろうという予感はあった。
だけどたぶん恋ではないから。
例えばこれが “ほんとう"なら、いつかどうしたって抗えぬような時がくるだろうから。
そんな理由で、私の方から強く関わりをもとうとはしてこなかった。
だけど、結婚したと耳にしたとき、えも言われぬ動揺が体を駆け巡った。
それだけは紛れもない事実だった。
これは一体なんだったのだろうか。
彼との出会いは、とある作品だった。
私が苦しい状況にあったとき、そのままを包むことで、そっと救い出してくれた作品があった。
それを創っていたのが彼だった。
それからとあるきっかけで出会い、数度、ご飯に行ったり、たまにピンと来たときに連絡をとったりするような間柄。
交わした言葉が多い訳ではなかったけれど、不思議と彼には大切な話をしたくなった。
最初に会った時の衝撃といえばものすごく、関わるようになってからも、なんとなく、不思議なつながりを感じていた。
こういうことは、これまでもたまに起こってきた。
何も全部が全部、恋愛関係になるわけではなかった。
ある種、弟子が師匠に抱く尊敬の念や、憧れのような時もあるし、家族のような気の置けない関係に発展する時だってある。
恋愛対象にもなりうる可能性があるとき、その選択の最善が、”恋人になること”だと思っていないのも事実。
では例えば、これが恋ではない、ある種の”憧れと親しみ”が混ざったような感情だったとする。
それでは、あの時の強い動揺の正体は、一体なんだったのだろうか。
私には思い当たることがあった。
浮かび上がってきたのは、「心の依代をひとつ、奪われるような感覚」。
言いようのない不安感、ともとれるようなもの。
冒頭で、これが恋なのかよくわからなかったと書いたが、
ここ2年ほど、なんとなく頭の片隅に彼を置いていたのは事実。
だけど、積極的に飛び込んでいったりはせず、居心地の良い場所を作っては逃げ込んでいた。私だけの平穏な世界に。
どうしてそんなことになったのか。
ここに至るまでの経緯を紐解くには、ひとつ明確にしておかなければいけないことがある。
何度か触れてきた「これが恋なのかよくわからなかった」ということについて。
私はこの冬で28になる。
これまで恋人がいたこともあったし、恋がどういうことなのかについては、おそらくそれなりの体感はあると思う。
では、どういうことだったのか。
実は、彼に対しては、精神的にものすごく惹かれる一方で、「触れたい」という感情がなかったのである。想像さえできなかった。
これが恋だとしたとき、ある種とんでもなくアンビバレンスな状態になることと、説明できない感情のギャップに、ずっと頭を悩ませていた。
惹かれること自体が稀な分、せっかくそれに似たような気持ちが湧いてきたのに、これは一体なんなのだろうかと。どこまで一筋縄でいかないのだと。
だけど、ここへきて、ひとつはっきりしたことがある。
実は私は、自ら選んで、その状態を、この場所を作り上げていたのだ。
思えば、恋人という深い関わりも、
誰かから女性として見られることさえ
いつのまにか怖くなっていた。
かつて、自分の人生がこぼれ落ちてしまうほど
闘いにも似た恋愛期間があったこと。
度々、そういう風に思っていない相手から
半ば暴力的な形で気持ちをぶつけられること。
そのどれもが、少しずつ絡み合って、知らず知らずのうちに、私の中の本来の恋愛感情、もっというと”女性的なもの”にさえ蓋をしてきたのだと思う。
そうやって、私はずっと、この場所を “選び続けていた”のだ。
自分のことだけれど、全く気がついていなかった。とんでもない驚きだった。
恋人なんてできるわけが無い。望んでさえいなかったのだ。
結局のところ私は、本当の彼に目を合わせることも、できないでいたのだと思う。
その代わりに、いつも私だけの平穏な場所に逃げ込んでいたと言える。
きっとあの時の動揺の正体は、いつのまにか心の依代のようなっていた場所が、ひとつなくなることに対しての恐怖と不安感だったのだと思う。
(もっとも、精神的なところに関しては、ある種の失恋感みたいなものも混ざっていたのかもしれないけれど。)
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私は常々、傷には、傷として存在する期限のようなものがあると思ってきた。
なかったことにすると、その期限はどんどん伸びていく。
だからちゃんと目前に引っ張り出し、
散々と向き合って、昇華させる必要がある。
だけどきっともう、じゅうぶんだ。
これまで、じゅうぶんに闘ってきた。
先ほど、”蓋”という表現を使ったけれど、
蓋をしていたのはおそらく恋愛感情だけではない。
蓋を作っていたのも、蓋をしていたのも、
私の中にあった様々なことが、複雑に絡み合った結果だと思う。
2年ほど前に、体調を崩してから
たぶんその少し前あたりから、
望むように外の世界と歯車が噛み合っていかないことに、私はずっと苦しんでいた。
とにかく、ただ闇雲にこわかったのである。
どこへ進むのも。
だけど、少しずつ視界が開けてきて、
なんとなく居心地のいい日々が訪れたとき、
今度はその平穏を守るのに躍起になった。半ば無自覚だったが。
もちろんこの日々も愛おしい。
いつかの私が、まずはこうなりたいと願っていた日常だ。
だけど、健やかな身体を取り戻した今の私が、少し厳しい目で振り返ると、
一方では、まるで日常に溺れるような感覚があったのも確かだ。
幸か不幸か、平穏かは分からないけれど、頭の先からつま先まで、鮮烈でいて温かい光がかけめぐる日々があることを、知ってしまっている。
そして心のどこかでは、いつかすべてが結実し、縁あって地球に生まれてきたこの生命体を、思い切り生き切る実感を持てる日々がくることを、信じていたのもまた事実だ。
頭の片隅に置いた彼を、心の逃避場所にしていた私は、
知らず知らずの間に、受動態の方の”いつか”と彼とを結びつけてしまっていたのだと思う。
いつか ”彼” が、どこかへ連れ出してくれるのではないだろうか、
というように。
本当に危ないところにいた。すんでのところだったと思う。
望む未来はきっと、いつだって自分のなかにある
私は元来そう考えてきた人間だったということを
この数年の間に、すっかり忘れてしまっていたのだ。
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これまで、ことあるごとに、”こわかった”という表現を使ってきた。
もしかするとそれが、歳を重ねる、ということのひとつの側面なのかもしれない。
だけど今、強く感じているのは、「自分の中に流れている空気を、根底から動かす時が来たのだ」ということ。
今感じている突き抜けるような清々しさが、何よりの証拠だと思う。
ここまで、本当に長い道のりだった。
またこんな風に思える日が来るなんて、渦中の私に伝えるとどんな顔をするだろう。
いつだって、その時はやってくるのである。
そして、ここまで振り返ってきた今、
もう目を背けられないほど確かな感情が、ここにある。
やっぱり私は、お互いが ”ともに生きていくこと” を選び、深く関わり合うような関係性も信じていきたいのだ。
これだけ”こわい”という感情が育っていた、ということはまた、
それだけ大切にしてきた、ということの裏返しでもあるだろう。
そして、そうまでしても守らないといけないものが、きっとあったのだと思う。
だけどもう大丈夫。
私は、私の中にある、”女性的なもの”をもう抑えなくていいのだ。
女性的なもの、どころか、もうなにも。
必要じゃないものは跳ね返していけるし、
本当に大切なものは、もっと光り輝いていくはずだ。
私は、私を生きていく。
ようやく、瞳を、心を、自分の手の中に取り戻した今。
生きていくために、なにをするか。なにをしたいのか。
それがもっと輪郭を帯びたとき、
きっと今の私が、どんな風に人を愛したいのかも見えてくる気がしている。
今、浮かび上がる微かな想いを胸に。
ここから、新たな旅がはじまる予感がしている。
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PS:to my such a lovely days and all of my besties.
もちろん、いまでも恋愛がすべてだとは思っていない。
無理矢理にするものでも、ないと思う。
恋人がいなくても、愛おしい毎日を過ごせることは、この5年間が証明してくれた。
恋愛をしていないことと、ひとりであることは決して同義ではない。
(この世にひとりで生きている人なんてほとんどいないだろうし、人間はみんな、ひとりであるとも言える。)
恋愛感情ではないかもしれないけれど、今も私のなかにはたくさんの愛が、いろんな形で存在している。
そのどれが欠けても、私はいないと思う。
たぶん、歩くことすらできなかったと思う。
みんなの深くて温かい、尽きることない愛情が、もう一度私を信じ切る勇気を育んでくれていたのだ。
だから今ここで、これまで私を守ってくれた ”こわさ”を、ついに手放そうと思う。
こわさだけでなく、思い込みや決め付け、知らず知らずのうちに手にしていた数々の制限さえも。
もう一度、生まれてきた時のように
曇りなき眼で、この世界を見つめる時がやってきた。
こわいものはない。
私は今日も、こんなにも沢山の愛の中で生きている。
いつだって、その時はやってくる。
図らずも、大切な存在である彼からその機会をもらえたことを、今はもう少しだけ、眺めていたいと思う。
恋や愛やが関係なくなったとき、彼とはようやく本当の関係がはじまる気もしている。それだって心から楽しみだ。
これは、決別の書。
そして、新しい私への誓いの書だ。
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2021/09/02 愛を込めて。
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PS :少し経って、思い返したこと。
「これが恋かどうか分からなかった」という状態と、その解釈について。
本文の中で、もし恋だとしたら、精神的な恋愛感情と「触れたい」という感情が結びつかないということは、ある種アンビバレンスな状態なのではないか、と書いた。
し、実際そう感じてもいた。
だけど、もしかしたらそれも、思い込みのひとつだったのかもしれない。
これについて考えるとき、思考の拠り所の多くは私の経験則が占めていたが、
やっぱり、"こうあるべきだ" 、という社会通念のようなものも、少なからず関与していたと思う。
例えば、恋愛をしていないから、ひとりである、なんてことは絶対にないし、(意味がわからないし)
結婚だけが誰しもにとっての、人生史上最大の幸せであるわけもない。
それと同じように、恋愛とは、恋愛感情と性的欲求が同居するもの、と言い切ることもまたできないだろう。
少なからず、この社会に足をつけて生きるからには、色んな枠組みや社会通念から完全に距離を取ることは、限りなく難しいのかもしれない。
だけど、誰と比べるでもない、ここにいる自分から生まれる感情や違和感に誠実であること、それがどこから生まれていそうかを考えてみること、そしてその時々での最適な選択を考え続けることだけは、やっぱり手放したくないと思う。(これは恋愛に限らず。)
そうやって、本来は限りなくグラデーションであるはずの世界を、ときに漂い、ときに色付きながら進んでいく。
それはもしかすると、ある苦しさも伴うのかもしれないが、私にとっては、あるものを見ないふりして、擬態するよりはよっぽど健やかな態度であるように思うのだ。
そしてこの振り返りは、
あの時の私にできなかった、
"生まれてきた感情を、そのままに見つめ、まずは信じてみる" という態度を捉え直すためのものだったのかもしれない。
ときに決心しながら、またゆらぎながら。
そうやって疲れたら、またここへ帰ってくるのもいいだろう。
まあゆっくりと行こうじゃないか。
2021/09/04 あとがき的なもの。高野山へ向かう電車のホームにて。(乗り換えにまさかの50分待ち!)