ゆらぐほどに愛おしい、ある夏の記憶。
今も鮮明に鳴る声、いびつだけど愛おしい温度、全てを包み込むやさしい熱…..
今から書くのは、心と言葉のはざまを今もただよう、大切な思い出。
とはいえ記憶としてとっておくにはあまりに勿体無いので、いつかの私にそっと手紙を送るような気持ちで記していこうと思う。
この夏、私は石川県輪島市の「輪島大祭」というお祭りに参加することになった。
友人の町内のキリコ(お神輿のようなもの)が10年振りに復活するという。
声をかけてくれたときから、これまでの長い歴史の上で、そんなにも大切な瞬間に参加できるということに、私は形容するにはあまりに大きな気持ちに包まれていた。
振り返ってみると、はじまる前からすでに、心と言葉のはざまをゆらいでいたのだと思う。
だけど私にとって、そして私たちにとって、きっと特別なものになるという高揚感だけはたしかに存在していた。
そんな、どうしても残しておきたかったお祭りの記憶。
だけどどれだけ時間が経っても、一向に言葉になる気配がない。
あまりにも濃密な時間は、鮮明に覚えていられるような、どこか物質的なものではなく、もっと細かい、例えるなら粒子のようなものに変換されて、体の深い部分に刻み込まれていくのか….
これはおそらく、初めての経験。
私を私として形作る、そんな根幹の部分に吸収されていったような気がする。
だけどひとつだけ、どうしても書いておきたいことがある。
実は、今年に入ってから、いやおそらくその前から、私の中に言葉がなくなっていることに薄々気が付いていた。これは今まで何度かでてきた「言葉」とはまたちがう種類のもの。
きっと、心が止まってしまっていたのだと思う。
私にとってはそれが人生すべてであるかのような言葉が、全く出てこなくなってしまっていた。
それはまるで、深い霧の中にひとり。呆然と立ち尽くすような。
どこを向いても、動いていかない。
あれだけ好きだと思っていた何かにも。
森を歩き始めた理由である体の大きな変化は、おそらくここからはじまっているのではないかと、ようやく受け入れられるようになったのがその頃のこと。
そんな私に訪れた、夏の終わりのやさしい熱狂。
あれから少しずつ私は私を取り戻し始めている。
この夏の記憶のすべてがいま、ゆるぎないエールのように輝きを放ちはじめ、あれだけ動いていかなかった時間が、動き出している音を全身で感じているところだ。
ひとりではなく、みんなとだから見られた〝お祭り〟の景色。
何者でもない、ただひとりの私をそのまま包んでくれる場所。
そんな場所がたしかにあると言えるこの人生は、どれほど美しいものだろう。
いまも言葉にならないほど、心が動いたこの夏。
それだけで私は今日も歩いていける気がする。
あれから少し時間が経って、私の中にほんのりと湧き上がる、この〝言葉〟を胸に、これからどこに向かおうか。
どこへだって行ける気がする。
2019.10.03
この夏とそのあとのすべてに、愛を込めて。