日記ぐらいは。

ただただ、移ろいゆくままに。

嵐という、私の人生の師匠

 

やはり爆弾は日常に落とされた。

 

嵐、2020年12月31日をもって活動休止。

 

くしくも発表があったあの日は、なぜか薄い緑の色無地を着ていて、帯揚げはさらに濃い緑で、サブバックはこれまた薄い緑、挙げ句の果てにはたまたま持っていたハンカチまで緑だったという、コンサートでもこんなに緑まとわないわというくらいの緑ルックで。

(着物そのものの組み合わせしか考えてなくて、外出るまで気付かず。気づいてからめっちゃ恥ずかしくなって、諸々早急に隠すというね。)

 

それで、その全身緑に気づいた時にふっと相葉くんがよぎったのを今でも覚えていて。ただ、それはあくまで日常の一風景として。

 

 

ただ、その日は少し特別な日だったから、楽しくて仕方なくて、夕方まで幸せいっぱいに過ごしていたら、急にね、きたわけ。

もう頭まっしろ。体温5度くらいさがって。

 

とにもかくにも状況を把握しないと始まらないのに、充電1%。

今そんなドラマいらないのよと思いながら、コンビニに駆け込んで、FC動画見て、ようやく全体像を把握。

 

 

したはいいものの、、、

覚悟していたとはいえ、まさかのタイミングだったから、どこに気持ちの落としどころを見つけたらいいのか分からなくて、でも、あと2年っていうリミットだけがどんどん輪郭を帯びてきて。

 

もう、止めようにも止まらない涙と極寒の中30分以上彷徨って、気づいたら祇園から五条まで歩いてたあの日のこと、私絶対忘れないと思う。(笑)

 

 

 

 

蓋を開けてみたら、このブログでも、一番初めに書いていたことで。「アイドルの向こうがわ」なんて名前をつけて。

 

うん、大野くんが一度、自由の国に帰ってみたいって。

 

 

やっぱりねって。それに関しては何にも驚かなかったし、そんな大野くんの人間らしさが大好きなんだけど、そんな大野くんと一緒に、少し足を止めてみようと決めてくれた4人のことも死ぬほど愛おしくて。

 

 

 

エンタメのど真ん中で、想像を絶するほどのものを背負って、素晴らしい景色ももちろんだけど、きっとそれ以上にもんのすごいものも見てきたはずだと思うのに、彼らから出てくる表現はいつも、隅々まで愛しかなくて。

 

5×20の挨拶でも、みんなといたから角も少しずつ丸くなって、こんなに優しくなれたというメンバーがいたり、どうしたって5だけは譲れないっていうメンバーがいたりね、、。

 

私たちにとっても、5人でいてくれることは奇跡で、希望でしかないんだけど、本人たちにとっては、もはや言葉にすら表せられないものだということがその端々から溢れ出ていて。

 

 誰かと生きるって、ずっと難しくて、ずっと美しいことなんだね。

 

 

そんな彼らが、どんな手を使ってでも、今まさに守り抜こうとしているものが、やっぱり嵐で。

私は一体どこまで男らしくて、愛に溢れて、聡明で、大きな人たちを好きになったんだろうって、、、呆然と立ち尽くすほどの感覚で。

 

 

 

とはいえ印象的だったのが、「僕も、いい形のうちに、嵐をたたむことを考えたことがある。」

っていう潤くんの言葉。

 

1年に1回のコンサート制作で、否応なく、”今の嵐” そして ”これからの嵐” に誰よりも向き合い、分析してるだろうと思う潤くんがこう考えるのも、不思議ではなくて。

 

だけど、それってあまりにも儚くて。もちろん、ひとつのエンタメの形としては、どこまでも綺麗なままで消えていくっていうのは美しいとは思うけど、でも、ここまで来たんだから、少しずつ降りていく景色だって一緒に見させてよって。みんながこんなに大きい存在になっているから輝いて見えるんじゃ、好きなんじゃないし。(もちろん死ぬほど努力して、ここまでやってきて、それを維持している嵐は最高に格好いいよ!いつもいつも勉強させてもらってる。)

だけど、例え少しずつ歳を重ねて、昔のようにど真ん中のアイドルとして、歌ったり踊ったりはできなくなっても、変わらずに5人で笑ってくれていて、誰よりもメンバーが嵐であることを誇らしく思ってくれてる空間が、この世界に存在しているっていうことが何よりの希望で。

だから、引き際の美しさは、絶頂期にピリオドを打つことではなくて、環境は変わっていったとしても、どうか、行けるところまで、この嵐という愛の世界を作り続けてくれるところに置いてほしいなと。改めて思った次第で。(とはいえ、それすらも物凄く大変なことで、大きな労力も伴うはずだから、簡単には言えないんだけどね。あくまでもいちファンとしての願い、ね。)

 

 

そういった意味では、この休止は嵐そのものにとっても、おそらく前向きなものだと今は受け止められていて。

もちろん人の心なんて分からないし、待ってるよなんてそんなことは大野くんには言いたくなくて。ただ真っ直ぐに好きなことをやって、自由の国を謳歌してほしいし、そこにまた、もし、純度100%で嵐としてもう一度生きてみたいという思いが芽生えた時には、みんなで笑顔で逢えるといいねって、あくまでもそういうスタンスなんだけどね。

待ってるなんて言わないから、死ぬほど自分を生きてみて!!!!って、伝えられるといいな。だから申し訳なさそうな顔なんてせずに、あと2年、ふにゃんとした笑顔を沢山見せてくれるといいなあ。

 

 

 

そしてもうね、

こんな時まで、彼らからは学ぶことがいっぱいで。

いつからか嵐は私にとって、単に格好いいとかそういう次元ではなくなっていて。相葉くんだけではなく、他の4人のことも心から尊敬しているし、一人で乗り越えられそうもない壁にぶつかった時には、状況に応じて、心の相葉くんモード、櫻井くんモード、二宮くんモード(これはかなり高難易度)、大野くんモード(これもかなりのもの)、松本くんモードを駆使しているとバラしたら、きっと友達には笑われるんだろうなと思うけど、これが本当で。

 

 

 

その存在が大きくなればなるほど、同じくらいにいつか、、と思って怖くなっていたのも事実で。

 

 

 

というのも、度々書いているけど、私の人生は何かが好きだという想いそのもので彩られていて。仕事も、基本的にはそういう気持ちをのせているから、もはや人生ほぼ全てが好きなものによって、好きだと思える気持ちによって作られていると言っても過言ではなくて。

とはいえ、心から好きだと思える人も、存在も、物も、そこまで多くない方だと思うから、なんというか、気持ちの分散をするのが苦手で。好きになったらもうとことん行けるとこまでいっちゃうみたいなね。そこに関しての感情の損得計算みたいなのが一切出来なくて。(彼に尽くしすぎたらいけないって頭ではわかってても、それ以外の表現方法を知らない、みたいなのが随所に表れちゃう感じ笑)

 

 

 

だからこそ流れていく時間とともに、少しずつ形が変わって、そのものとの距離感とかどう大切にするかの表現方法とか、そういうのを変えないといけないタイミングっていうのがものすごく苦しくて。

 

 

だから、”好き”という気持ちに生きたいと強く願う一方で、その先にもし、また別れが来るならもう何も好きになりたくないという気持ちが、どちらもかなり色濃く同居してしまっていて。

 

 

とはいえ、そんなことを言っていたら、いつかの彼と別れたまま次の恋なんていつまで経っても始められないし、人生の大きなタイミングだって見失いそうだし、何より、同じ場所にとどまって、不安になって、どうにも先に進めない、、なんて繰り返しているのはやっぱり自分らしくないから、どこかで全て吹っ切って、生まれ変わって、今を信じてとことん愛し抜ける強さを持った人間になりたいと思っていたところで。

 

 

 

そんな矢先にこの恐れていた事態。

その発表が私の人生の半分といってもいいほどの嵐さんからで。

 

 

初めはまた、もう一人の自分がいなくなるような怖さに苛まれて、もう、、だめかもしれない、、、となっていて。

 

 

それなのに、その後のいろんな言葉や表情や、表現を見ているうちに、あれだけ危惧していた怖さはスッと消えていって。

 

もちろん油断すると、込み上げてくるものがまだあるのは事実だけれど、まさか恐れていた向こう側の景色が、これほどまでに美しいだなんて、想像もしていなかったから。

 

 

そこでね。

ああ、嵐さんは、私の一番弱かった部分の色までとうとう塗り替えてくれたんだ、、って。

 

いつか形がなくなるなら、

いつか終わってしまうなら、

心を寄せることなんて悲しすぎるから、もう辞めたいとさえ思っていたのに、

”好き”を囲む景色は、例え悲しみや寂しさの中でさえ、こんなにも美しくて、あったかくて、優しくて。

 

 

だから、もし、中学生のあの頃に戻れたとしても、そこで私が好きになる彼らは、どこまでも最高だから、全力で好きになって、今を生きて!!と伝えたいし、それはこの先の私の人生でも同じで。

 

 

もう怖いなんて思わずに、何に対しても、自分が心から好きだと思えるものに出逢えたなら、その気持ちを信じて、足をひとつ前に進めてみたい。

 

心からそう思えて。

 

 

 

 

ことがことだけに、色んな方向に話が飛んでしまったけれど、今回のことで分かったことはただひとつ。

嵐さんはやっぱり、もはや私の人生の師匠だってこと。

 

だから私も、もう怖がらずに、心からの”好き”という気持ちともっと出逢って、それをもっと信じて、いつか大切なものに何かがあった時には、全てをかけてでも守り抜こうとする、そしてそれができる、そんな格好良い大人になりたいと思う。

 

 

 

いつだって真正面から大きな愛と大きすぎる背中を見せ続けてくれる嵐さんに、

そんな嵐さんが今日も、明日も、きっとこの先も大好きだという気持ちに、

大きな、大きな、愛を込めて。

ナラタージュと、わたし

ずっと、書こうと思っていたことがあった。

 

それは私の、おそらくひとつ前の、恋のこと。

 

終わりでもあれば、始まりでもあって、衝動でもあった恋。数は多くなくても、このひとつで、誰かの一生分の景色を見た気さえする、不思議な時間。

 

手に届いていたようで、今もまだ届かなくて、どこまで続いているんだろうというくらい深くて。

 

こうやって何度も、何かのきっかけで触れなおして、吟味しては新しい答えを手にするような気がする恋について。

 

どうしてこんなに、何度もこの恋に出逢い直すんだろうと振り返ると、それはきっと、今の私の、全てのはじまりをくれた人だったからというひとつの答えに辿り着く。

 戦って、とにかく戦って、時に自分がすり抜けていった、そんな時間がなかったら、きっともっと何もかも、すぐそばにある”当たり前”を選んでいたと思う。

 

 

今の私に湧き上がる、”自分らしく生きたい”という願いも、”美しさ”をめぐる想いも、という、あの3年間と、それを咀嚼したそのあとの時間がなければ、きっと私のものではなかったと思う。

 

なぜ今になって、それも、区切りをつけてからおよそ4年目を迎えるほど時間が経って、こんなにもあの時間が思い返されるのか。

 

 

 

時は、去年の5月に遡る。

 

私は、1本の映画に出逢った。

それは、『ナラタージュ』という作品。

 

先生に恋をしていた生徒が、卒業して大人になってから再び先生に出逢い、想いを加速させていく。ひとつ恋の、始まりから終わりまでを描いた作品。

 

 

予告を見ただけでは、話の全貌はわからなかったし、公開の1年ほど前に原作を読んだ時には、葉山先生の煮え切らなさにイライラしたことが記憶の片隅にあったのも相まって、全部見切れるのか少し心配もしていた。

 

 

だけど、結果的にこの作品は、私にとって、おそらく人生の1本であると言い切れるくらいの大きな出逢いになった。

 

 

それくらい、この映画では不思議なくらいそこに自分がいたし、設定は違えども、自分を重ねて観る時間があまりにも多かった。

 

 

目線、言葉、想いの波間、衝動。

 

 

そのどれもが、あの時間を彷彿とさせ、彼の姿を、当時の私の目を、怖いほどに蘇らせた。

 

多分、今までに観た映画の中で、あんなにも涙したのは、立ち上がれなくなったのは、今までの人生の中ではこの1本だけ。

 

それくらい、衝撃的な作品だった。

 

 

たぶん、それまで私はあの恋のことを、心のどこかで否定してしまっていた。友人からは応援されるどころか心配され、私自身は自分をすり抜けていく。そんな恋に意味なんてあったのだろうかと。いつしか恋そのものにも懐疑的になってしまっていた。

 

 

だけど、私はナラタージュを通して、泉の目を通して、ああ、きっと私は、彼を愛していたんだということに、こんなにも時間が経って気がついたのだ。

 

 

こんなに時が経って、本当の意味であの恋を受け入れ、ひとつの大切な時間として昇華することができたのだ。

 

 

 

一般的にみると、この話は不倫ともとられるし、先生と生徒の禁断の愛ともとれる。

そういう、いわゆるイロモノ系や不倫系の話は描かれ方によっては私は苦手で。ああ、またそれねって。もういいよって。

 

だけど不思議と映画で見た葉山先生にはそうは思わなかったし、不倫という色を強く出すというよりは、この作品からは愛そのものを映し出したいという意気込みを強く感じた。

 

 

もしこの作品が、エゴイスティックな感情ベースに泉を振り回す構成ならまず観てもいなかったと思うけど、おそらく2人は感情の波間にであっていて、それは言語化できる領域じゃなくて、だけどお互いが、確かにそこにある自分の気持ちに寄り添ってくれる相手であったことは確かで。

その曖昧さとか、移ろう感じがあまりにもリアルで、人間らしくて。

 

 

きっとこれから先、人生のいろんなタイミングでまた見返すことになるんだろうなというあまりにも大切な一本になった。(初めて映画のDVDも買ったしね。)

 

 

 

さて、その後の私はというと、あれ以来、正直怖さも相まってか、この人という人にはまだ出会えていない。

 

だけど、少なくとも、あの時間のことを言葉にしてみようと思った時点で、少しずつ前に向かっていることは間違いないし、人生の中で、苦しい瞬間も含めて、美しい景色を見せてくれた彼には大きな感謝を持って、また新しいところに一歩ずつ向かっていけたらと思っている。

 

 

それでもたぶん、この人だって人に出会ったらまた泣くんだろうなと思う。

だから、間違ってなかったんだって、あの時の自分にそっと伝えられるような、そんな美しい選択を。

そして私自身も、もっともっと、強く、優しい人になれるように。

 

 

ナラタージュと、これまでの想いに愛を込めて。